今日も仕事でしたが、謹んで御祝い申し上げます。
今日は一日、新しい事業の家具や建具の代わりになるものを探しに行きました。
小倉北区から新宮まで、半日車移動です。
少しでも建築コストを下げるため、あれこれ探しています。
事務用品などは探せばいろいろあるものですね!!
個人的には、工具関係の中古品を扱ってるお店に興味津々。
あれもこれも欲しいですね!(人から見たらガラクタですが)。
今は、新しいデイサービスのプログラム作りを頑張ってもらっています。
あと、既存施設での教育や体制作りも大事です。
スタッフの皆さんには多大なご協力をいただいています!
この場を借りて有難うございます!
追悼 小野田寛郎
ルバング島から帰国して30年 わが心の靖国神社
私は、靖国神社に一度祀られた人間です。最初の戦死公報は昭和二十年九月、二十五年に一度取り消されますが、二十九年に再び戦死とされ、四十九年に作戦命令解除の口達を受けて帰還するまでの二十五年間は、戸籍上死んでいたわけです。
十五年間、靖国神社に入っていたことになる。
最近は、年に三カ月はブラジル、九ヶ月は日本という生活ですが、日本に戻ったときは、八月十五日、必ず靖国神社にお参りをしています。
靖国神社の参拝について、今大きな問題になっていることについては、まったくばからしい、と思っている。
そもそも、おかしくなったのは、昭和六十一年、中曽根首相の参拝取り止め以後です。
小泉首相のやり方も拙劣でした。八月十五日に参拝すると言っておきながら、十三日にしてしまった。
首相になる前に、八月十五日に参拝する、と言い、それで首相に選ばれたのだから、これは国民との公約です、「自分の信条だ」と明言して、その通り参拝すればいい。中国などに対しても、「自分は参拝することを国民に約束して首相になったのだから、国民相手にウソは言えない。だから八月十五日に参拝する」と言えばよかったのです。
「私の参拝は日本国民の総意だ」と明言しておけば、中国は、日本国民全体を相手に文句を言わなくてはならないことになる。相手が首相個人、日本政府だと思うから、中国は文句を言い易い。日本国民全体を相手にして文句なんか言えるはずがありませんよ。
まあ、行かないよりはましではあるけれど、小泉首相は、やりかたがヘタすぎると思います。結局、腰がすわっていない。
中国に、弱味を見せるとろくなことはありません。中国人のやることは戦前から変わっていませんよ。「反日デモ」など、支那事変(日中戦争)前の、排日運動とまったく同じです。
抗日運動、日貨排斥運動(日本製品のボイコット運動)……結局あのときは戦争になったけれど、そもそもは幣原喜重郎外相の「軟弱外交」がいけなかったんです。
(米英協調、中国内政不干渉、国際連盟中心主義などを柱とする国際協調外交)。
中国に長く住んだ先輩からよく聞かされました。
中国に対する甘い対応が、抗日運動、排日運動に火をつける結果になったのです。今とまったく同じではないですか。日本は、昔も今も交渉ごとがヘタすぎる。
処刑された人は「受難者」だ
A級戦犯を分祀すればいいとかいう話まであるが、そもそも「A級戦犯」なんて、戦勝国が勝手に決めただけでしょう。東京裁判なんか、まともな法律から言ったら、茶番劇です。
ラグビーの試合が終わってから、勝った方が負けた方に、「お前はボールを持って走ったからいけない」と文句を言うようなものです。自分たちだってボールを持って走ったのに、負けた相手に「サッカーのルールでは違反だ」と言い出すようなものですよ。
「平和に対する罪」なんて戦前にはなかった。それなのに、占領中に一方的に裁かれて処刑されてしまった。
受難者ですよ。(処刑されたA級戦犯は七人、BC級戦犯では約千人)
戦争をしたのは「犯罪」ではない。「戦犯」といわれるが、犯罪者ではないんです。A級もBC級も関係ありません。
私は三十年間の作戦中に自分に不利な山小屋を焼き払い、戦闘では多くの敵を殺傷しました。戦争だからです。投降の時、銃殺刑を覚悟していましたが、フィリピンのマルコス大統領(当時)は、「軍人の模範だ、過去の行為をすべて許す」としてくれました。戦場で闘った者はみな犯罪者になるのでしょうか。
百歩譲って、戦争指導者たちが「戦犯」であったとしても、刑期を終えればすでに「犯罪者」ではありません。
日常起きるどんな犯罪であれ、刑期を終えた後まで犯罪者呼ばわりされることがないのは、当たり前のことです。
国のために死んだら靖国神社にお祀りするというのは、戦争で死んだものたちとの約束です。それを国が護持しない、別の施設を作る、などというのは、借金を返さないよりもっとたちが悪い。
死んだ人にウソはつけない、というのは、日本人の良心です。死んでしまったからもういいんだ、約束は流してしまっていいんだ、などというのはとんでもないことです。
中国人にはわからないかもしれないが、けっして死んだ人との約束をたがえてはならない、死者に鞭打つようなことはしてはいけない、というのは日本人の古来の感情ですよ。
戦友への礼が軍国主義か
日本に帰還したときに、当時の田中内閣から百万円の「見舞金」をもらいました。全国からたくさんの見舞金もいただいた。私はこれを、靖国神社に奉納した。
国のために戦って死んだ戦友たちにせめて礼をつくそうと思ったからです。
しかし、このことは大きな批判を浴びました。記事にも書かれたし、投書も来た。「軍国主義に荷担する行為」と言い、「戦死者を慰める一番いい方法は二度と戦争をおこさないことで、寄付をするならそういうことのために使うべきだ」と言うんです。「自分で稼いだ金を寄付しろ」とも。
「寄付など貴様の気休めだ」という意見もあった。「気休め」の批判は甘んじて受けますが、これは個人の自由の問題でしょう。
しかし、私はルバング島の作戦で、多くの戦友が目の前で死んだのを見てきました。私の作った爆薬で二十数人の傷病兵が自決しました。昭和二十九年五月には一緒にいた島田庄一伍長が戦死、昭和四十七年十月、終戦から二十八年目に小塚金七一等兵もまた、私の目の前で撃ち殺されました。ふたりの戦友を、戦後になってから「戦死」させたのです。
ほかにも多くの戦友が死んだのです。
私は生き残った。
気休めにしかならないと言われても、せめて靖国に眠る戦友たちに詫びなければ、これから先、生きていけないと思いました。
私は、勝手に三十年間戦った訳ではありません。任務解除の命令が届かなかったからですが、政府から補償はもらえません。とにかく働いて生きていく糧を得なくてはならない。そのためには、どうしても、心のけじめのようなものが必要でした。「気休め」「自分勝手」と言われても、そうせずにはいられなかったのです。
それが、「軍国主義に荷担する行為」だそうです。国のために戦死したものたちは、死んだら神様なんです。
「心ならずも」ではない
小泉総理が、若者たちは「心ならずも」戦争に行かされて、戦死したような言い方をしましたが、とんでもないことです。
既婚者は、家族を遺して死ぬことに心残りもあったかもしれないけれど、独身の若い者たちは、自分が先頭に立って戦わねば、とみな思っていた。年寄りを前に立たせたってしかたないのですから。これはどこの国だって同じでしょう。命がなくなることは覚悟していた。
私は陸軍中野学校二俣分校で訓練を受けました。ここは南方戦線と本土における遊撃(ゲリラ)要員を養成する学校です。二年間かかる諜報、謀略技術を、語学を省き、必須事項のみを朝から晩まで、三カ月で詰め込まれました。
日々、国体、国家、社会などについても、徹底的に教官と意見をぶつけあうのです。なぜ命をかけてこの仕事をしなくてはならないか、を討論したものです。
漫然と「天皇陛下のために」だけでは死ねない。天皇とは国のことで天皇のためにではなく、日本のために死ぬのだ、ということを本当に理解するための議論の中では、天皇を批判することもありました。そうしなければ、成功しても発表さえされず、失敗すれば命がない、カネにもならなければ名誉にもならないことは、とてもできないからです。
自分たちをおいて、誰がこの任務を果たせるか、という気持ちで、私は同期の四十三名とともにフィリピン戦線に送られた。そして、昭和十九年、「ルバング島でゲリラ戦を指導せよ」という命令を受け、見習士官として赴任した私は、それから三十年間、終戦を信じず「残置諜者」として戦い続けることになった。
私たちだけはない。みな、若い人は覚悟を決めていました。「心ならずも」なんていう気持ちで、特攻機に乗れますか?
だから、彼らは死んで私達に恩恵を与えてくれる神様なんです。独身者は、親兄弟が死んだら、もうお祀りしてくれる人はいません。でも靖国神社がある。国のために戦死した人を国で祀ることは当たり前で、これは、日本だけのことではない。どこの国だって当たり前の感覚です。
日本人はそれさえわからなくなってしまったのか、と思います。
カネ、カネの世の中
私は政府からもっとたくさんの補償をもらったのだろうとか、当時、そんなことも言われた。日本はカネ、カネの世の中になってしまっていた。
私が、帰国して一年ほどで、日本を離れブラジルに渡ったのは、靖国神社の一件が、一番大きなきっかけです。
寄付騒ぎのあと、外国人記者クラブに呼ばれたことがあります。どうせまたカネのことを聞かれるのだろうと思ったから、私は挨拶するときにこう言った。
「今日はお招きいただいてありがとうございます。私はルバング島から裸同然で帰ってきました。けれど今日は裸のまま来るわけにはいかないから、借金をして買った服を着てきました」と。
「でも印税があるでしょう。立派な資本家ではありませんか」とすぐに聞かれた。
日本に戻ってから、戦闘経過の報告書のつもりで書いた『わがルバン島の30年戦争』(七四年講談社、九九年日本図書センターより刊行)が六十万部売れたおかげで私は六千万円の印税をもらったのですが、三千万円は税金だった。
私の手元に残った三千万円のことを聞かれたわけです。
私はすぐさま、「女中さんをして働いても、三十年かかれば三千万円ぐらい貯まるでしょう」と切り返しました。そもそも、税金として納めた三千万円だって、私はこれ一冊書くのに三十年かかっているのだから、そのぶんの必要経費を認めてもらいたいぐらいのものです、とすぐ答えた。
外国人の記者たちは大笑いして、それ以上は聞きませんでした。外国人記者は、こちらに余裕がある、と見ると深追いをしてこないんですね。
私はもともと気が強いのか、親とも、学校ともケンカや議論ばかりしていたから、こういうことには慣れているんです。
ニューヨークに行ったときには、予想通り、原爆のことを聞かれました。私は「科学の進歩は本当にありがたい。ブラジルに渡ってからもブルドーザーやトラクターのおかげで本当に助かっている。その科学を人殺しに使っては困りますね」と皮肉を言いましたよ。
外国人記者クラブでのやりとりを、当時の『週刊朝日』は、「言葉の弾を巧みにかわした情報将校」と書いていた(笑)。
「あやまち」はアメリカだ
「小野田は軍国主義の亡霊だ」「小野田は軍人精神の権化だ」マスコミの論調はみんなそれでした。私はせっかく戻ってきた祖国がますますイヤになっていきました。
広島の平和記念館に行ったときのことです。私は慰霊碑に書かれた言葉に驚きました。「安らかに眠ってください。あやまちは再び繰り返しませぬから」とある。これはいったい誰が作ったのか、私にはわからなかった。
原爆を落としたのはアメリカでしょう。アメリカは原爆を落とし、無差別に大量の国民を殺した。「あやまち」を犯したのはアメリカではないのですか。「日本が負けたのがあやまちで、二度と負ける戦争はしない」という意味なのか、本気で「あやまち」と書いたのなら、こんなもの爆破してしまうぞ、と案内した中野学校の仲間と笑いました。
いくらでもやり方はある。爆破などは簡単なこと。完全犯罪が可能です。私は情報や破壊や謀略の教育を受けたのですから(笑)。
「あやまちは繰り返しません」という……あれが、日本の「戦後」を表していますね。
日本は自らの歴史を歪曲してしまったのです。子供たちは、東郷元帥も、乃木大将も知らない。ヘタをすると、日本がアメリカと戦争をしていたことさえ知らない子供がいる。しかしこれは、子供たちの罪ではない。教えないのだから、知らないのが当たり前です。
「従軍慰安婦」の件もそうです。「従軍慰安婦」なんて言葉、私は聞いたことがありません。
十七歳のときに商社員として滞在した中国の漢口(現在の武漢)にも、二十歳で入隊して赴いた江西省南昌にも、「特殊慰安所」はありました。漢口では雑貨を納入したりしていたから、慰安所の経営者とも、女性たちとも話をしたことがあります。内地人も、朝鮮人も、中国人もいました。確かに、たちの悪い経営者に騙されて連れて来られた人も、本人は知らないが実は親に売られてきた人もあったでしょう。特に朝鮮半島には悪質な方法で、女性をかどかわす者がいると聞いています。悲劇もあったと思います。
しかし女性たちはみんな、お金稼ぎに熱心でした。当時は知事や少将の年俸が一万円、と言われていましたが、「それよりもずっと儲けた」と言う者もいた。一日に三十何人相手にしたとか。
実際に悲劇もあったけれど、作り話を「ウリ」にする強者もいました。「私は女学校に行っていたのに、従軍看護婦の仕事だとだまされて連れてこられた」などというウソにだまされる兵士もいました。
今とは違って、娼妓がいた時代で、当時慰安婦のしたことは、ただの商売です。それをなんで「軍が関与」とか言って問題にしているのか。もちろん、軍が病気の検査や、丸腰で客になる兵隊を警備していた。それだけのことです。
誇りを失った日本人
なんでこんな日本になってしまったのか。仲間は「負けたのが悪いんだ」という。私は「オレのせいじゃないよ、オレは三十年戦ってたんだから」と答えた。
私は三十年間戦って、勝てなかった。けれども負けはしなかった。戦闘を中止せよ、と言われて降伏したが武装解除もされず捕虜の扱いも受けなかった。
日本は、戦争に負けたとき、誇りも失ってしまったのでしょう。
戦場でも、一度ケガをすると、それですっかり怖じ気づいて、使いものにならなくなる兵隊がいる。ケガをして、かえって「こん畜生!」と思い、「弾なんか当たるときは当たるさ」と開き直る人もいるが、飛んでくる弾の音に全部当たる気になってしまう人もいる。こうなると、まったくダメなんです。
日本は戦争に負けて、そうなってしまった。私がルバング島で戦っていた間、日本人は、大人たちは、なぜもっとしっかりしなかったのか。
経済の発展と、物質文明ばかりを追いかけ、あれがないからいやだ、あれがないからできない、そんなことばかりを言っている。「あれがないからできない」というのは、自らの無能を証明する言葉です。
そんな大人はどうにもならないでしょう。せめて、真っ白な気持ちと頭を持った子供たちに、日本をまともな国にしてもらうしかない。少しでもその手伝いをするのが、私の今のつとめでもあると思っています。
(平成17年『WiLL』8月号より)
小野田寛郎
広島、長崎で行われた原爆投下は、その他の空襲を含め非戦闘員の無差別大量殺戮であり、決して許されることではありません。我々は決してその事実を忘れることなく、過ちを繰り返さないのではなく、繰り返させない努力を続けていかねばなりません。
現在、米国は自国外での活動を大幅に縮小し、世界各地で果てしない紛争が増加しています。シリアでは悲惨な内戦が続き、イラクは国内の対立で国家崩壊の瀬戸際(せとぎわ)にあります。ロシアのクリミア半島併合と、続くウクライナの内戦は、ロシアからの天然ガス供給に依存する欧州から事実上容認され、ウクライナに依存するインドの防衛力整備が遅延するためにインド洋を不安定化させ、我が国にとって間接的脅威となっています。イランの核兵器開発問題は、米国・欧州と中国・ロシアが対立して、核を容認するかホルムズ海峡を封鎖させるかの選択を迫られ、我が国にとっては直接的な脅威です。そしてアジアでは、中国が南シナ海周辺国に軍事力を駆使(くし)して横暴な覇権(はけん)拡大を進め、我が国の尖閣諸島への挑発は激化の一途です。北朝鮮のミサイル、核兵器開発もまた然りです。今や、世界の平和と安全を保ってきた微妙なバランスは崩れ去り、安保理常任理事国自身が国連で果たすべき責任を忘れて自国のことのみに専念する世界が現出しています。
戦後、私達が戴(いただ)いてきた日本国憲法に書かれた「平和を愛する諸国民の公正と信義」や「いずれの国家も、自国のことのみに専念して他国を無視してはならい」という理想はどうなったのでしょう。実は、私達が理想と掲(かか)げてきた平和主義とは、当初より戦後我が国を占領した軍司令官が極秘に発した虚構の産物であったことが、歴史資料により明らかになっています。日本国憲法が作成される前、占領軍司令官が日本に対してだけ発した極秘指示文書には、「日本はその防衛と保護を、今や世界を動かしつつある崇高(すうこう)な理想に委ねる」とあり、この指示はほぼそのまま日本国憲法に組み込まれました。しかし、当の戦勝諸国は戦後すぐに戦前の勢力圏を回復させるべく軍事力を行使しています。フランス、オランダは東南アジアの、英国は世界各地の旧植民地を、ソ連はポーランドとフィンランドの領土を、米国は太平洋諸島を手中にするべく行動しました。また、占領軍司令官は大戦当時には存在しなかった罪を東京裁判の直前になって制定し、連合軍の犯したあらゆる犯罪行為を不問(ふもん)にして、日本人だけを断罪しました。戦犯リストの作成を命じられたGHQ幕僚のソープ准将ですら、その裁判は「戦争を国策の手段とした罪は戦後に作られたものであり、偽善的なリンチ裁判用の事後法だ」と述懐(じゅっかい)するほどでした。そして、占領軍司令官であったマッカーサーもまた、Their purpose, therefor, in going to war was largely dictated by security.(したがって、彼らが戦争に向かった目的は、大部分が安全保障のためであった。)と米国議会で証言しています。
私達は、戦後長い間平和と繁栄を享受(きょうじゅ)してきました。しかしこのまま日本だけが罪をかぶせられ、その判決を鵜呑(うの)みにしたまま国際社会の現実から目を背(そむ)け続けて現実性のない「盲目(もうもく)の平和(へいわ)主義(しゅぎ)」を戴(いただ)き続けることは、戦禍に倒れ、廃墟を復興させた先人の皆様の努力の成果を崩壊させるものといわざるを得ません。米国は、沖縄戦の直後から日本が降伏の意志を伝えていたにも関わらず、原爆攻撃を実施しました。東京大空襲では、一夜にして原爆を上回る数の人々を斃(たお)しました。そして原爆も東京大空襲も、非戦闘員に対する無差別攻撃という点で明確な国際法違反です。国際的には、戦争といえども、国際人道法という時間をかけて積み上げられた国際法のルールに拘束されます。東京大空襲の指揮官は、自分が戦争犯罪人だと自覚していました。平和教育に祀り上げられた「はだしのゲン」は、断罪する相手を間違っています。さらには、米国は真珠湾攻撃より5ヵ月も前に日本本土爆撃を計画・承認したこと、日本は原爆投下より前に降伏意志を示したことを無視して、戦争の実態を歪めています。そこには、被爆者だけを特別視して国家を否定し、原爆以外の犠牲者を貶(おとし)めんとする「選民(せんみん)思想(しそう)」すら透けて見えます。
憲法がいかに「いずれの国家も、自国のことのみに専念して他国を無視してはならない」と宣言しても、国際法は国内法に優先するため、各国の行動を規制することは出来ません。そして国際法は、交戦権を含めて各国主権の至高価値を認めています。さらに、世界各地で自国の安全と繁栄を守るためにあらゆる努力が続けられています。そもそも国家間の争いと戦争は、核兵器の登場以前から続いており、たとえ核兵器がなくなることがあっても世界から国家間の対立や争いがなくなることはないでしょう。私たちは、「記憶を風化させるな」と言うことばで被爆者だけを平和の殉教者(じゅんきょうしゃ)に仕立て、また、他者に補償を求めるだけの存在となることを拒絶します。他(ひ)人任(とまか)せの「核兵器廃絶」を唱えるよりも、世界の現実と国際法の規定に目を開きます。風化させてはならないのは、一般市民の無差別(むさべつ)殺戮(さつりく)、そして被爆直後の死に臨む犠牲者達が発した「兵隊さん仇を討って」「アメリカのばかやろう」などの末期(まつご)の心情です。誰を恨(うら)むでもなく、黙々と都市と国家の再建を果たした人々の足跡(そくせき)です。祖国の安全無くして独立は無く、独立無くして平和もありません。私達は、我が国と私達の子孫のために、「盲目(もうもく)の平和(へいわ)主義(しゅぎ)」の虚構(きょこう)を克(こく)服(ふく)し、もって我が国が、真に永続的平和と安全確保に向かうよう努力することを誓います。
過ちを繰り返えさせないために。
「平和と安全を求める被爆者たちの会」
昭和天皇陛下の詔勅の全文を読み返したいと思います。
【終戦の詔勅原文】
朕深ク世界ノ大勢ト帝国ノ現状トニ鑑ミ非常ノ措置ヲ以テ時局ヲ収拾セムト欲シ茲ニ忠良ナル爾臣民ニ告ク
朕ハ帝国政府ヲシテ米英支蘇四国ニ対シ其ノ共同宣言ヲ受諾スル旨通告セシメタリ
抑々帝国臣民ノ康寧ヲ図リ万邦共栄ノ楽ヲ偕ニスルハ皇祖皇宗ノ遣範ニシテ朕ノ拳々措カサル所 曩ニ米英二国ニ宣戦セル所以モ亦実ニ帝国ノ自存ト東亜ノ安定トヲ庶幾スルニ出テ他国ノ主権ヲ排シ領土ヲ侵スカ如キハ固ヨリ朕カ志ニアラス然ルニ交戦已ニ四歳ヲ閲シ朕カ陸海将兵ノ勇戦朕カ百僚有司ノ励精朕カ一億衆庶ノ奉公各々最善ヲ尽セルニ拘ラス戦局必スシモ好転セス世界ノ大勢亦我ニ利アラス 加之敵ハ新ニ残虐ナル爆弾ヲ使用シテ無辜ヲ殺傷シ惨害ノ及フ所真ニ測ルヘカラサルニ至ル而モ尚交戦ヲ継続セムカ終ニ我カ民族ノ滅亡ヲ招来スルノミナラス延テ人類ノ文明ヲモ破却スヘシ斯ノ如クムハ朕何ヲ以テカ億兆ノ赤子ヲ保シ皇祖皇宗ノ神霊ニ謝セムヤ是レ朕カ帝国政府ヲシテ共同宣言ニ応セシムルニ至レル所以ナリ
朕ハ帝国ト共ニ終始東亜ノ解放ニ協力セル諸盟邦ニ対シ遺憾ノ意ヲ表セサルヲ得ス帝国臣民ニシテ戦陣ニ死シ職域ニ殉シ非命ニ斃レタル者及其ノ遺族ニ想ヲ致セハ五内為ニ裂ク且戦傷ヲ負ヒ災禍ヲ蒙リ家業ヲ失ヒタル者ノ厚生ニ至リテハ朕ノ深ク軫念スル所ナリ 惟フニ今後帝国ノ受クヘキ困難ハ固ヨリ尋常ニアラス爾臣民ノ衷情モ朕善ク之ヲ知ル 然レトモ朕ハ時運ノ趨ク所耐ヘ難キヲ耐ヘ忍ヒ難キヲ忍ヒ以テ万世ノ為ニ太平ヲ開カムト欲ス
朕ハ茲ニ国体ヲ護持シ得テ忠良ナル爾臣民ノ赤誠ニ信倚シ常ニ爾臣民ト共ニ在リ若シ夫レ情ノ激スル所濫ニ事端ヲ滋クシ或ハ同胞排擠互ニ時局ヲ乱リ為ニ大道ヲ誤リ信義ヲ世界ニ失フカ如キハ朕最モ之ヲ戒ム 宜シク挙国一家子孫相伝ヘ確ク神州ノ不滅ヲ信シ任重クシテ道遠キヲ念ヒ総力ヲ将来ノ建設ニ傾ケ道義ヲ篤クシ志操ヲ鞏クシ誓テ国体ノ精華ヲ発揚シ世界ノ進運ニ後レサラムコトヲ期スヘシ爾臣民其レ克く朕カ意ヲ体セヨ
御名御璽
昭和20年8月14日
【口語訳終戦の詔勅】
朕は、深く世界の大勢と、帝国の現状をかえりみて、非常措置をもって事態を収拾しようと考え、ここに忠実にして善良なる汝ら臣民に告げる。
朕は、帝国政府に、米英中ソの四国に対し、そのポツダム宣言を受諾する旨、通告させた。
そもそも、帝国臣民の安寧をはかり、万国が共存共栄して楽しみをともにすることは、天照大御神からはじまる歴代天皇・皇室が遺訓として代々伝えてきたもので、朕もそれをつねづね心がけてきた。
先に米英の二国に宣戦した理由も、実に帝国の独立自存と東アジア全域の安定とを希求したものであって、海外に出て他国の主権を奪い、領土を侵略するがごときは、もとより朕の志すところではない。
しかるに、交戦状態はすでに4年を過ぎ、朕の陸海軍の将兵の勇敢なる戦い、朕のすべての官僚役人の精勤と励行、朕の一億国民大衆の自己を犠牲にした活動、それぞれが最善をつくしたのにもかかわらず、戦局はかならずしも好転せず、世界の大勢もまたわが国にとって有利とはいえない。
そればかりか、敵国は新たに残虐なる原子爆弾を使用し、いくども罪なき民を殺傷し、その惨害の及ぶ範囲は、まことにはかりしれない。
この上、なお交戦を続けるであろうか。
ついには、わが日本民族の滅亡をも招きかねず、さらには人類文明そのものを破滅させるにちがいない。
そのようになったならば、朕は何をもって億兆の国民と子孫を保てばよいか。
皇祖神・歴代天皇・皇室の神霊にあやまればよいか。
以上が、朕が帝国政府に命じ、ポツダム宣言を受諾させるに至った理由である。
朕は、帝国とともに終始一貫して東アジアの解放に協力してくれた、諸々の同盟国に対し、遺憾の意を表明せざるをえない。
帝国の臣民の中で、戦陣で戦死した者、職場で殉職した者、悲惨な死に倒れた者、およびその遺族に思いを致すとき、朕の五臓六腑は、それがために引き裂かれんばかりである。
かつ、戦傷を負い、戦争の災禍をこうむり、家も土地も職場も失った者たちの健康と生活の保証にいたっては、朕の心より深く憂うるところである。
思うに、今後、帝国の受けるべき苦難は、もとより尋常なものではない。
汝ら臣民の真情も、朕はよく知っている。
しかし、ここは時勢のおもむくところに従い、耐えがたきを耐え、忍びがたきを忍び、それをもって万国の未来、子々孫々のために、太平の世への一歩を踏み出したいと思う。
朕はここに、国家国体を護り維持しえて、忠実にして善良なる汝ら臣民の真実とまごころを信頼し、常に汝ら臣民とともにある。
もし、事態にさからって激情のおもむくまま事件を頻発させ、あるいは同胞同志で排斥しあい、互いに情勢を悪化させ、そのために天下の大道を踏みあやまり、世界の信義を失うがごとき事態は、朕のもっとも戒めるところである。
そのことを、国をあげて、各家庭でも子孫に語り伝え、神国日本の不滅を信じ、任務は重く道は遠いということを思い、
持てる力のすべてを未来への建設に傾け、
道義を重んじて、志操を堅固に保ち、
誓って国体の精髄と美質を発揮し、
世界の進む道におくれを取らぬよう心がけよ。
汝ら臣民、以上のことを朕が意志として体せよ。
御名御璽
昭和20年8月14日
一緒に行きたかったのですが、仕事の都合で
自分は、火曜日の朝、早々に帰郷しました。
靖国神社には、父方の祖父が眠っています。
子供たちにこんなメッセージを送りました。
「西田 正隆 昭和18年9月出征。
昭和19年ビルマのマンダレーで戦死。
今もビルマの地に眠っている。
インパール作戦は、連合国から支那国民党軍への
大量の物資輸送路を断つための作戦と言われているが、
実際はそれだけではなく、
当時、イギリスの植民地であったインドとともに闘い、
インド国民軍の兵力の大部分を温存し、
イギリス15万人対日本9万人の圧倒的不利な条件で
2か月を戦い抜き、敗れはしたが、
結果、インドを独立へと導くこととなった作戦である。
余談だが、敗走を続ける日本軍には弾薬も食料も
皆無であり、3万人が戦死し、4万人が戦病死(病死、餓死)
したが、日本兵から、民家が襲われたり、略奪をうけたという記録は、
現在も一件も報告されていない。」
子供たちはまだ幼いですが、きっと理解してくれると思っています。
靖国神社に眠るすべての国の英霊の魂が
安らかであらんことを祈ります。
最後に靖国神社に奉納されている、
インドからの感謝状を引用します。
昨日今日から仕事始めになった事と思います。
それにしても、今年は日本や世界がどのようなことになっていくのか。
北朝鮮からものっけから激しい圧力がかかってきているようです。
欧米は、未だに過去行った侵略的資本主義から脱却できず、
経済も寡占企業による独占や、
働かずして冨を得ようとする植民地政策意識丸出しです。
それに毒された後進国は、争いをやめることができません。
ここにきて、グローバリズム、自由主義と言った一見耳触りの良い言葉で、
世界の市場を荒らす算段を立てています。
それにならって中国や韓国も同じ道をひた走っています。
イラクへの制裁は、戦争への引き金にもなりかねません。
核を持つ国が持たない国へ制裁を加えるという、
何ともいびつな世界。
それとも戦争を起こして、戦争特需にでもあやかろうというのか?
(朝鮮戦争時は日本もあやかりましたが)
日本経済がこれまで行ってきたことは、
健全な市場主義のもと、寡占企業を可能な限り作らず、
健全な市場競争のもとで
いいものを安く作る技術と供給能力を高めました。
それにより、国民は豊かになり、
物の価値を見抜く「目」を養うことができました。
その結果、安全に不安のあるものは買わない、
という行動ができるようになっています。
毒入りギョーザ事件のあとがそれを物語っています。
世界的な不況、大震災、タイ洪水など、
大きな不安の中でも日常生活が続けられていることは、
世界的にみても稀有なのではないでしょうか?
個々の人間が生きていくのに必要なものは、
水、食糧、エネルギーです。
それに付随して、
家族、地域、教育(史実を基にした歴史教育を含む)です。
国に望むものは、それらの安定供給と
外交的安全です(軍事的なものを含む)。
今自分が暮らしている環境がいかに豊かなものなのか、
それを再確認し、日々を生きていきたいものです。
真珠湾攻撃では、第2攻撃部隊を出し、
備蓄していた大量の重油に火をつけていれば、
アメリカ艦隊の動きを封じることが出来たのではと言われています。
そうすると、早期の講和が行えた可能性があります。
この日はまた、小国日本が欧米列強に対して
アジアの独立を勝ち取る為の戦いを始めた日でもあります。
そんなことを言っていると、「戦争を美化している」と言われそうですが、
では、いまだに原爆投下の再現シーンを流し、
大東亜戦争における原爆投下の正当性を正義とする
大衆向けショーを毎年行っているアメリカはどうなのでしょう?
最終兵器を人間に使用したことを美化してるのでは?
国の誇りのために戦争を美化することと、
国の利益のためだけに核兵器使用を美化することと、
どっちが正しいのでしょう?
300万人と言われる先の大戦の犠牲者に、
深く哀悼を捧げます。
⇒ 大島渚 (11/24)
⇒ 東邦サービス (06/02)
⇒ 黒崎のいないいないバー (04/09)
⇒ 無職のポニョ (04/09)
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